桜舞う季節に桜が消えた場所へ
夜風が温くなってきたから、ジョギングから遠回りして帰った。
ずっと見に行けなかった、廃校になり取り壊された小学校を見に行くためだ。
見に行けなかった、というよりは見に行きたくなかったのだろう。
あるべきもの、あって当然だったものがそこに無い状態を実感するのを避けていた。
昔からそういう傾向にはある。変化することを恐れる質だ。
生物恒常性…なんてのを高校で教わったが、まぁ言い訳に過ぎないだろう。
変わりゆくものから目を逸らして、無かったことにして、すっかり慣れてしまってから「ああ、もう無いんだな」と確認する。一種の自己防衛なのだろう。
夜ジョギングなので当然暗い。
民家はあるにはあるが、以前は学校の電気で照らされていたのだ。
周りが暗い時点で無くなったことを実感する。
学校は山の麓、というか麓からちょっと上がった所にある。
小学校の校庭は、例えるなら盆地の底にあるような感じだった。
校庭の周りは坂状になっており、そこに桜が校庭を取り囲むように植えられている。
この坂は「さくらだん」と言われていた。
その桜の周りが道だ。車が1台通れるくらいの道である。
(…お分かりいただけただろうか…文章力のなさが…)
坂の上からペンライトで校庭を照らしてみる。
当然ながら、校舎も体育館もない。
なぜか体育道具を収めていた倉庫だけが残されている。
体育館があった場所には、近所の家の明かりが灯っている。
校舎があった場所は、突き抜けて遠くの景色がうっすら見える。
なぜだろう。
なんとなく、そこに「ある」ように見えるのだ。
校舎も、体育館も。
人間の脳は不思議なもので、例えば腕を切断してしまっても失った部分が痛くなったりかゆくなったりするのだそうだ。幻肢痛という。
無いことが頭で分かっていても、感じる痛みやかゆみは本物だろう。
感じている本人にとっては。
その時うっすらと見えた校舎と体育館は、私にとっては「感じられた」ものだ。
なんせ6年通った学校で、地域のイベントの会場であり、大きな建物というのは何かと目印になるものだ。
目に焼き付いているというよりは、染み付いている・染み込んでいるという方が正しいだろう。
頭では無いと分かっている。実際に見えているのは家の灯と遠くの街だ。
でもそこに、その景色の手前に、大きな建物があるように感じられてしまう。
本当なら…いや、いつもなら「さくらだん」の桜が咲いている頃である。
4月を過ぎ、入学式の頃には桜は散り、葉桜になっていた。
しかし桜はもうない。
桜だけでなく紅葉も、他の木もない。木にかかっていた、木の名前が書かれたプレートごと無い。
一本も無い。見事に、綺麗に無い。
それでも校舎の、体育館のその手前に
目の前に桜が見えたように感じられたのはなぜか。
やはり染み付いているからなのだろうか。
手足のように、当たり前にあったから感じられるのだろうか。
帰り道に光景を思い出していて、ふと気づいたのだが
校庭にはアスレチック・ジャングルジム・百葉箱・鉄棒などなどがあったのだが
当然のことながら、それらも既にない。
ないのだが、ないことに全く気付かなかった。
今書いていて思い出したが、そういえば校舎の隅にあったザクロの木も消えていたな。
あって当たり前だと感じていたものは、失われてもそこに「ある」のだろう。
忘れられたときが死だなんて、ありふれた台詞だけれど案外正しいのかもしれない。