ビビりあげろんの記録と実験

考えたことをまとめたり、気になることを試したり

小説をより深く読み解く

小説を読むときは、最低2回は同じものを読むようにしている。

1回目でストーリーを把握し

2回目で詳細な場面を展開させている。

先にストーリーを把握するのはただ単にせっかちな性格なだけだが

2回目をしっかり読むようになったのは高校の先生の影響がある。

 

当時高校1年、現国の授業の話である。

芥川龍之介羅生門」を冒頭から、という日であった。

現国なんて本を読めばだいたいわかるじゃないか、という

クソかわいくない学生だった私は、あまり真面目には授業を受けていなかった。

何ページかをさらっと音読したあと、先生はこう質問した。

 

「この主人公の年齢はいくつくらいですか?」

 

以下、青空文庫から引用

 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥た、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲すむ。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草はえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 

は?

いやいや、書いてないやん。

ぽかんとする教室。

すると先生は黒板にある箇所を書き、こう説明した。

 

右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら

 

「ほっぺたに面皰(ニキビ)ができるのは、若いうち。思春期くらいです。

 それを過ぎるとあまり大きなニキビはできません。

 もしできても吹き出物と呼ばれます。

 つまりこの下人(主人公)は、君達くらいの年代と言えます」

 

衝撃であった。

ストーリー重視で本を読むと、なんとなく漠然とした「男」が頭の中にいるのだが

しっかり言葉を拾い上げ、想像力を働かせると「男」がどんな人物なのかを読み取ることができるのだ。

その後は「男」ではなく「同世代の男の子」の話として読むことができた。

 

言葉を丁寧に拾い、想像する。

読み方一つでより小説を面白く読むことができる。

それを教わって良かったと思う。