「大切の人を亡くした人になんて声をかける?」
大学生の時、よく話していたクラスメイトから突然聞かれた。
「なーなー、大切な人を亡くした人になんて声をかける?」
全くなんの脈絡もなく言われたものだから、戸惑ってしまった。
それも真剣な様子とかではなく、いつも通りの明るい感じなのだ。
何か人文系の授業でアンケートでも取っているのか?
身近な誰かがなくなったのか?
それとも大切な人を亡くした誰かに声をかけたいのか?
意図が全く読めない。
「声はかけられないな。なんて言っていいかわからない。余計傷つけそうだから」
すると彼女はこう言った。
「そうなんだ!私は一緒にご飯食べに行ったり遊びに行ったりして明るくするよ!」
話はこれで終わった。
彼女は何もなかったかのように別の話題を話し始めた。
結局彼女の目的は分からずじまいだ。
ただでさえ薄い表面上の仲良しさんではあったが、その時に
「ああ、この子とはこれ以上仲良くなれないな」と思ったことを鮮明に覚えている。
私が悲しくて一人になりたい時に、ガンガン遊びに誘ってくるんだろ?と。
その後クラスが分かれたため、疎遠になって今に至る。
今になって思うことが2つある。
1つは「人は自分がして欲しいと思うことを人にしたがるものだ」ということ。
相手のことを知っていれば相手の希望に合わせることはできるが
そうでなければ自分が基準になる。
モノサシは人の数だけある、というやつだ。
彼女は自分が悲しいときは、明るく接して欲しいタイプだったのだろう。
傷つけるかもしれないからと声をかけないでいたら
彼女を悲しませるのかもしれない。
そういえば「いつもと同じように接する」という優しさがある。
どちらも一つの優しさの形なのだろう。
もう1つは「多様性には不愉快なことも含まれる」ということだ。
猫も杓子も多様性多様性と久しいが
「多様性」というからにはその中に自分が不愉快になることも含まれる。
自分が大して好きでもないものを「大好き~」と言う人がいるよという
みんなちがってみんないい、お花畑だけが多様性ではない。
自分にとって不快な考え方をする人の存在を許容することも多様性だ。
※嫌いな奴に反論するなと言っているわけではない
「こいつマジ腹立つわ、胸糞悪っりー頭おかしいんじゃね?(以下自主規制)」
というくらいのクソ野郎の存在を許せるか、という話だ。
ちなみに私はクソ野郎の存在など許してはいない。
完膚なきまでに叩きのめしたいのだがスキルがないのでやらないだけだ。
あと「多様性でみんな認め合えばいいね~」というお花畑の人から
「みんな仲良くしようよ!」と帰りの会みたいな反論が来るのは別にいいかと
思っている。
話が完全にとっちらかっているが。あれだ。あの子は元気してんのかね。