ビビりあげろんの記録と実験

考えたことをまとめたり、気になることを試したり

心配されるのは不快でしかない

前にも書いたけどもう一度。

心配する、というのは相手を信じていないということだ。

未熟な者に対してしか心配はしない。

まぁ心配するしないは個人の判断の差があるからそれはいい。

問題は「あなたが心配だ」という表明することと

その表明による相手のコントロールだ。

 

「あなたのことが心配だ」と言えば何をしてもいいと思っている者が一定数いる。

うちの両親であるが。

こうも心配なんよ、心配なんよと言われると不快でしかない。

心配と言えば聞こえは良いが、噛み砕いて言えば

「私の言動はあなたの為であり、純粋な善意である。

だからあなたが私の行動に対して不快感を表明することは許さないし、その権利はない。

あなたは私のコントロール下にあるのだから」

ということだ。

要はコントロール欲であり、私を思い通りにしたいのであり

その欲を「あなたの為」というオブラートに包んで

「自分が心配になる」という不快感を味わいたくないがために私の行動を制限するのである。

少しでも逸脱すれば怒鳴られる。

正直無視すればいい話なのだが、無視しても怒鳴られる。

「こんなに心配しているのに、お前の態度はなんだ!」と。

これが30を越えた今でもそうなのだ。

不快でない訳がない。不愉快でしかない。

信用されていないのだ。

 

各所から「家を出た方がいい」という助言を得ているのだが

これは確かに距離を置いた方がいい。

結婚しろだのなんだのと言う割に干渉が多すぎるのである。

ただ「どうせ引っ越すなら県外」と思っているので、その場合は仕事をどうするかという問題がある。

あるいは顔を合わせる時間を極力減らし、コミュニケーションを必要最低限にするか。

取り急ぎこれだな…引きこもらなければ…

となると、早急にパソコンが必要である。

今月も忙しい。

 

とにかく

「心配だ」という言葉でコントロールされるのは不愉快、という話でした。